判断しないこと

久しぶりに、最近ハッと気づいたことを書きます。

熊本に引っ越してきてから大分の叔母と再び交流が始まりました。
母方の叔母なのですが、小さい頃からとても大好きな叔母です☆

わたしの父は長崎出身、母は大分出身。
わたしも長崎佐世保出身。生粋の九州人です。

父の仕事の関係で3〜4年に1度のペースで引越しをする
いわゆる転勤族と呼ばれる家庭で育ったわたし。

九州に居た頃は、大分の叔母とも交流があり
随分と可愛がってもらった記憶があります◎

その後、九州を離れ関東圏や東北へ引越してからは
ほとんど会うこともなく、大きくなりました。

それでも「ここぞ!」という時には本当に頼りになる存在です。

わたしの幼少時代も、すったもんだがあった時も
気付けば叔母の存在がありました。

親以外で、わたしの素を知っているのは恐らく叔母でしょうね!
だから、どんなに繕おったとしても見透かされてる感じがあります。(笑)

そんな叔母の所へ、年に一度は遊びに行くのですが
その時に毎度言われることがあります。

「おばちゃんの周りでも、転勤族の人が居て
数年でその場所を動くことが分かってるから
初めから深い付き合いをしないんよね。

別れる辛さがあるから
その傷が深くならんように
初めから深い付き合いをせんのよ。

そうなると、どこへ行っても
浅い人間関係しか築けなくなるんよ。」

この話題はわたしへの忠告として説教のように言われるのではなく
軽い会話の中で、何度か持ち上がるのです。

(台所でお皿をお洗いながら世間話をしてる時とかにね・・・)

転勤族で育ったわたしは
「あ〜、分かるな!その感じ!」というような反応をしていました。

ところが、今年のお正月。

この話題と叔母の言葉がとてつもなく心に残り
しかも、ちょっと不快感を持ってわたしに響いたんですね。
叔母の話し振りや言葉は、さほど変わってはいないんです。
ただ、同じ話題を受け取るわたしの方に変化があったのです。

なんでこんなに心に引っかかるんだろう・・・と。

これ、本当に面白いことですね。

本でも映画でも何でも良いのだけど
同じアイテムでもその時々で受け取り方が全く違います。
響き方が違うのです。

そこを注意深く観察してゆくと、自分が見えてくるのです。

まさに写し鏡のようになっているんですね。

お正月に叔母と話した時にわたしが受け取ったのは
不快感というか、モヤモヤとして無視出来ないような感覚でした。

「そういう浅い付き合いでアチコチ転々とするのも良いけど
いつかそれを乗り越えなきゃいかん時がくるんよ。」

引越しがライフスタイルの中に自然に存在していた幼少時代。
わたし自身は、このことをとてもプラスに受け取っていました。

引越しや転校に慣れっこになっていたので
新しい環境への適応能力があったのです。

どんな環境でも、とりあえずは抵抗なく溶け込めるのです。

土地が変わるので、本当にいろんな体験もできました。

お芝居で「パーン!」とシーンが変わるように
本当に全てが次の日から変わってしまいますからね。(笑)
それはそれは新鮮で楽しい体験でした。

「ここは、ずっとではない」というのを初めからちゃんと知っているんです。
だらか良い意味で「今だけ」という環境を思い切り味わって楽しめるのでしょうね。
縛られるものも無いので、気軽で心地よいものでした。

ここからが大切なのですが
どんな事もどんな物も、裏と表があって一つです。

これはどんな些細なことや物にも当てはまる法則だと思います。
(出産でもこれを体感したので、後日書きますね。)

良し悪しではなく、光と影のような関係です。
さらには、AかBかではなく「唯一のそれ」です。

わたしは転々と動いてきたことを
あまりにもプラス評価し過ぎていたようです。

今までの経験があるから、今の自分がある。

これは事実です。
どんな体験もプラスに考えることは悪いことではありません。
むしろプラスに転換した方が生きやすいかもしれませんね。

ただ、そのプラス転換を過剰評価すると
光に焦点が当たりすぎて当然、影も深くなってゆきます。

自分の正義を証明するためには、敵が必要になります。

転々と環境を変えて様々な体験をすることを良しとするならば
一つの場所に留まって、地に足を付けることを悪しとします。

いやいやい、別に地に足をつけることを悪しとしていないよ!と言ったとしても、
片方を「良し」とするなら、もう片方を「悪し」としているのです。

よく耳にする話で「判断(ジャッジ)をするな」とありますね。
「良い、悪い」で判断をしない、というものです。

わたしも時おり、その「判断を捨てる」という場面に出会いますが
マイナスの時はそれが分かりやすいんですね。

何かに対して不快感を抱く。
誰かの言葉に反論したくなる。
ある事象に対して改善したくなる。

こういうシーン、よくありますね。

その時に「あぁ、相手の考えを良し悪しで判断してた!」と気づく訳です。

「地に足を付けて、深い人間関係を気づくことも大切」
という叔母の言葉に対して、わたしが過剰に反応したのも
「地に足を付けることは、そんなに大切?」
「縛られずに自由であることはいけないの?」
「浅い人間関係は悪いの?」
・・・といろんな判断が生まれたからです。

そのことについて、しばらくモヤモヤを頭を巡らすのですが
「判断を捨てよう!」と決意して、この件に関して終止符を打つ訳です。

良い悪いでは無く、叔母の考えは、叔母の考え。
良い悪いでは無い・・・以上!

という感じで自分は判断を捨てた気分になって終わらせたのです。

が、しかし!そうも問屋がおろさない。(笑)
そこじゃ無いんですね・・・。

わたしは自分の育った環境(場所を転々とすること)に対して
過剰評価していたんですね。
もう、言っちゃえば、自分の考えや行動パターンや感覚全てにおいて
オメデタイほどに「良い」と過剰評価しているんです。(笑)

そうなんです。

反発する相手に対する「悪い」という判断ではなく
自分に対する「良し」という判断に気付かされたんですね。

これに気づくまで1週間以上はかかりました!
それほど、近すぎて分からなかったんですね・・・。

鏡そのものばかりをみていて
肝心の写っている自分自身が見えていなかった感じ。

転々と動くこと(これは、まるごと「わたし自身」と言ってもいいでしょうね!)
を「良し」と過剰に評価しているからこそ、対する叔母の言葉に反応したのです。

そのことに、さほど重きを置いていなければ叔母の話や言葉に対しても
「なるほどね、それも有りだわ!」って素直に受け入れられるはずです。

これまでのわたしの「判断をするな」は
「他人は他人。わたしはわたし。みんな違って、みんな良い、以上!」
・・・ってなくらい表面的でありました。(笑)

自分が大好きなのは、おおいにけっこう。

でも好きすぎて周りが見えない・・・となると摩擦が生まれますね。

自分の過去のデータに頼るでも無く
周りの情報に頼るでも無く
自分のセンターを常に意識してゆきたい。
そんな事を感じました。

数年前に叔母に言われた言葉。

「さとこ(わたしの名前)は、人の話を聞かんやろ?」

・・・さすが叔母!ほぼ見透かしてる!(笑)
頑固者って、こういう事か。

何か違和感を抱いた時。
焦点を相手に向けるのではなく、自分に向ける。

しばらく、このレッスンを続けてみようと思います◎

幸福を求めるな。
幸福を求めると、
同時に不幸も生み出すから。

みたいな事をOSHOが言っていましたね。

出来る限り、フラットな視点でありたいものです。

長文、お付き合いありがとうございます。