魔法のことば

毎晩繰り広げられる光景…。

「寝る前に読む絵本を、どっちから読んでもらうかバトル」
ウサコとエイトがそれぞれ1冊づつ選んで読むのがお約束なんだけど
最近は、読む順番で喧嘩をするのがお約束になってきました。

そんなバトルを横目で見ながら、たいていわたしは嫌な気持ちになり
そんな気持ちで「はい、こっちから読んで。」と言われても
少し霞んでしまったわたしの心は、楽しく読めない日もある訳です。

ジャンケンで決めたとしても
「絶対に相手に勝ちたい!」という雰囲気プンプンで
あからさまにズルしたり(これは、たいていエイト)
それで怒り出すウサコ。

それで昨日、とある提案をしてみました。

「さっきまで楽しく遊んでたのに、絵本を読むたびに喧嘩になるんなら、絵本読まない方が楽しい気持ちのまま眠れるよ。絵本読むのをやめよう。」

そして今朝。

コタツに潜り込んだふたりが、またまた喧嘩をはじまりました。
どっちが蹴っただの、どっちが押しただの…。

この喧嘩も毎度毎度、繰り返されるので、またまた提案。
「もう、今日限りでコタツを片付けてしまおう。」

そしたらウサコの怒りは頂点へ達し
「もう!!エイトが蹴飛ばして来たのが悪いんだよ!」とわたしにぶつかって来たので
「喧嘩の種になるならコタツなんか、いらん!」と言ったわたし。

ウサコはその論点をすり替えたことに反応して
「メルちゃんには関係ない!ウサコの話を全然聞いてない!」と怒りました。

昨日の絵本といい、今朝のコタツといい、連続してわたしは「喧嘩の種を取り除く」という行動を取ったわけです。
ほぼ、無意識に近いこの行動を、ウサコは見逃さずにわたしに指摘したのです。

でもわたしも、不愉快な気持ちが治まらないので
「一緒に暮らしてるんだから、目の前で喧嘩を見る側の気持ちも分かってよ!」
「喧嘩したいなら、わたしの目の前でやらないで!」

と言って、ちょっと車を走らせて頭を冷やすことに。

なんで、いままでそこまで気にならなかったことが
昨日と今日で気に触ったんだろう…。

なぜ?なぜ?? なーぜー?! なーーぜーー??!!

と悶々と運転してたら、ふとわたしの心に
「こんぺいとう」という言葉が閃きました。

金平糖ってご存知ですよね?
あの小さな砂糖玉です。
面白いユニークな形をしていて
キラキラ…コロコロしているあの金平糖です。

砂糖を一週間ほど、火にかけながらコロコロ回していると
あの星みたいな形になるそうです。

しかし、何故あの形になるかは未だ謎だと聞いています。

わたした去年使っていた手帳にこのウンチクが載っていて
冒頭にはこう書かれていました。

「ひとは大人になるにつれて知識や感情に支配され、
あるものをあるがままに見ることができなくなる。
(中略)
肝心なことの多くは、いまだに解明されず、
すべては神秘そのものである。」

この文章にであったとき、心が軽くなりました。

「なぜ、金平糖がこの形かなんて、どぉーだっていい!
甘くて、美味しい、心が弾む♪ ……以上!」

子どもは、目の前のものを、あるがままに見ています。

そうなんです。

子どもは理屈が欲しいわけじゃない。
子どもは解決方法を示して欲しいわけじゃない。

あるがままに、ただ起こったことに
共に存在しているだけで満足なのです。

わたし自身に「喧嘩は観てるだけでも不愉快になる」という想いがあるから
「喧嘩しないで欲しい」という期待が生まれ
当然、そんな期待はあっさり裏切られるので(笑)
失望してイライラする訳ですね!

そもそも、「喧嘩はしちゃいけない」とジャッジしてることに違和感在りですね…。
「喧嘩はするな」と言いながら「自分の気持ちに正直になれ」と言う。

大人のわたしだって、守れるもんか、こんな矛盾するもの(笑)

何事にも表裏があるから存在できているこの世界。
ありがたく両方味わってゆかないとバランス取れないよなぁ〜

その両極面を味あわせてくれるあらゆるモノを排除するのは、やり方が違いますね…。
絵本が悪いわけでもなく、コタツが悪いわけでもなく、
ただ、ふたりが喧嘩しただけのお話です☆

そこにウンチク持ち込んだのは、誰でもないわたしだった。

さらに「わたしの目の前で喧嘩しないで」は、ありのままを受け入れてない証拠。
「喧嘩している自分」をありのままに受け入れてもらえないのだったら
「喧嘩している自分」と「喧嘩していない自分」とが分裂して
ありのままでいることなんて出来るわけないですよね。

自分で言ってて、自分で答えを出しちゃった(笑)
なんだろうね、この一人芝居みたいな感じ・・・笑っちゃう。

そんなことを考えながら、お水取りをして家に帰ると
ふたりはコソコソ冷蔵庫を開けて朝食のパンを探しておりましたとさ…。

昨日の残り物を照り焼きにして、キャベツの千切りとマヨネーズをのせて
食べたら本当に美味しくて、この美味しさにウンチクはいらん!(笑)

「美味しい!以上!」

ついつい、犯人探しを始めちゃったり、
無駄に「なぜ?なぜ?」と思考が走りだしちゃうけれど
そんな時はココロの中で「こんぺいとう、こんぺいとう」と呟いてみよう。

誰もがひとつは持っている
魔法のことば。

わたしのメモ帳に、ひとつ加わりましたとさ。

結婚について(3)

このシリーズも(3)まで膨らむとは、わたしも予想外の展開です(笑)

わたしの経験した結婚論なので、違和感アリアリの方は、どうぞスルーしてくださいね☆

ちょっと話が逸れます。

ツカちゃんは趣味でサーフィンをやっています。
ここ数年は腰痛でほとんど波のりにゆくことがないのですが
千葉に住んでいた頃は、波情報を見ては海にひとりで行っていました。

まだ子どもが小さいお母さんなら、よくわかると思いますが
お母さんって自由が少ないと感じることが多くありませんか?

男性は子どもが小さくともある程度フットワーク軽く行動できるけど
女性には「お母さんじゃないとダメ〜!」と子どもが泣く時期は、思い通りに行動しずらくなります。

わたしは、そういう時、嫉妬の感情が生まれました。

いいね、ツカちゃんは「行きたい」と思った時に自由に行けて。
ずるいね、ツカちゃんは「飲みに行ってくる」って夜外出できて。
ずるね、ずるいね…。

そんな感情が常にどこかにあって、波のりに行くツカちゃんを快く見送ったことが一度も無い!
いや、一度くらいは、あったかなぁ?(笑)

もうね、波乗りは、波次第だからいつも突然なんです。

「あっ、明日の早朝、波が良さそう!」とかそんな感じだから、計画したり予定できるものじゃないんですね。
だから余計にわたしの気に触り(笑)夜中に出かけてゆくツカちゃんを快く送れない。

完全なる被害者意識です。

そのストレスは別に存在してても良いのですが、当時のわたしには邪魔でした。
それで以前から話してみたいなぁーと思っていた方に電話セッションをお願いしたのです。

「相手が羨ましく思えるかも知れないけど、メルさんは自分でこの役がやりたくて、自分で決めて地球にやってきたんだよ。」と話してくれました。

その言葉がとてもしっくりきて
「自分で立候補してこの役を選んだくせに、舞台にあがったとたんに不満を言い出してるわたし」という姿が客観的に見えて、思わず笑ってしまいました。

問題は自分の中にある。
自分の声を聞きたい。
超安全チケットは自分の中にしかない。

そのことがだんだん分かりはじめ、実行するうちに自分を信頼することがどういうことなのかを体験してゆきます。

どんどん自分を信頼できるようになると、自分がどれだけ自由なのかを体感してゆくのです。

そして本当の自由を知ると、縛るものは何も無いことがわかりました。

前にも話したけれど、わたしはツカちゃんを「主人」とか「旦那さん」と呼べず
あえて肩書をつけるなら「パートナー」か「相棒」です。

それはもうすでに「結婚」という誓約を超えた繋がりの表明ですね。
自分に本当の意味での自由があることを知ってしまった以上
もう「縛られている」という感覚さえ失ってしまいます。

「相手が自由に行動できることに嫉妬してしまう」というストレスを抱いていたはずのわたしが
半年後には、気持ちよくツカちゃんを送り出すことができていました。

嫉妬や羨ましく思う感情は、チリひとつとして存在していないことに、わたしが一番驚きました。
そしてツカちゃんが自分自身を大切にすることが、わたしには自分のことのように嬉しいのです。

話を「結婚」に戻しますが、わたしが自分を信頼することでこの意識にを体感できるようになり
しかもツカちゃんがパートナーである、という揺るぎない確信がある今。
改めて「結婚」という制度について感じてみます。

……どっちでもいい!(笑)

「結婚」という契約をしていても、していなくとも、解消してもしなくとも、どうだっていい!
「結婚」というもので自分を縛り付けることはできないし
そもそも結婚していても「縛られてる」なんて感じてないので
わざわざ解消する必要もないかな…と(笑)

どんな形であっても、ツカちゃんがパートナーで在り続けることに確信があるので、本当にどっちでもいいんです。
まぁ、もしかしたら生涯パートナーであることを祝福して「解消記念日」が訪れる時が来るかもしれませんね☆

わたしが1年前に、ふと思いついた「書類上、解消する」ことが何よりの愛の誓いになる時代がすぐそこまで来ているような予感もします。

(誓う必要も、本当はないんですけどね…)

そうなると、わざわざ「結婚」という契約を結ぶ必要もなくなるのかなぁ…。

契約を結ばないと不安と感じるのなら、それはわたしの1回目の結婚のようなものです。
その不安は決して「結婚」という契約では安心にはなりません。
(わたしの場合はね。)

2回目の結婚は「何モノも、わたしを縛ることはできない」という真理を教えてくれました。
「結婚したから(誓約があるから)」ツカちゃんと共に暮らしているのではなく
「パートナーである」ツカちゃんと共に暮らしているだけです。

この発見は、もう目からウロコで本当にポロポロと泣いてしましました(笑)

「結婚」のテーマは、もう味わい尽くしたかな!という気分です。
ツカちゃんがサプライズでくれた結婚指輪を数年前に失くしてしまったのだけど
そこに記された言葉は現実となりました。
(めでたし、めでたし♡)

もしかしたら、まだまだ「結婚」というテーマがわたしを待ち受けてるかもしてないけど
それはそれとして楽しんでゆこうと思います。

長々と3回に渡り、お付き合いどうもありがとうございました〜☆

結婚について(2)

さてさて。

前回、1回目の結婚で「相手を縛ることなんてできない」ということを体感したお話をしました。

その体験が終わりを告げた時に、パートナー・ツカちゃんに出会います。
わたしは1回目の結婚を解消する前に、仕事も辞めていたので
本当にあらゆる肩書を失った状態で実家へ戻ります。

仕事も辞めた。
家庭も無くなった。

その喪失感は半端無く、ぽっかりと穴が開いたような感じでした。
大きな虚しさのようなものが過ぎ去ると
急にわたしの中から大きなエネルギーが満ちてきます。

あぁ!もうわたしは自由なんだ!
何処へでも行けるし、何でも始められるんだ〜♪

この開放感はそれまで味わったことのないもので
これから何をしようかと考えるだけでワクワクしていました。

本当は誰も、何もわたしを縛っていたわけではないのに
「わたしは自由だ〜!」と思う気持ちは相当強く
通っていた陶芸教室を辞めるときも
「長期ボローニャへ行くことになったので辞めます」とホラを吹いたくらいです(笑)

(結婚生活をしていた家の近くに教室があったから、説明するのが面倒だったんだね…わたし)
まぁ、陶芸の先生にはすぐにバレて笑ってくれましたが。

そして再び、クレヨン画を描き始めます。

そんな「新生メル」のわたしと出会ってくれたのがツカちゃんです。

ウサコがお腹に宿ってくれて、わたしたちは結婚をするのですが
この結婚生活は、明らかに1回目とは質が違っていました。

もちろん意見がぶつかることもあったし
お互いに不満を抱くこともありました。

初めての子育てに悪戦苦闘もしていました。

でも、明らかに出会う人も、出会う事柄も、今までとは完全に違う。
ステージが変わったことを、鈍いわたしでさえ理解できるのです。

わたしの内面に大きな変化が起き始めたのが、この頃です。

どんどん絵を描くようになり、それを積極的に発表していました。
「小さな宇宙人アミ」を読んで、深く心に響いたり
まだ観たことのない、体感したことのない世界が、わたしを魅了しました。

そうして内面を変化させながら、お母さんとして、パートナーとして生活している中で
常にわたしの頭の片隅にあるテーマがありました。

ツカちゃんとの関係性です。

具体的に何かトラブルがある訳じゃないんですよ。
なんだかよく分からないけど、ツカちゃんとの関係にテーマを感じていました。
そんな中、クレヨン画を描いている時にいろんなメッセージを感じるようになります。
ちょうど1年前の2013年頃です。

「光の曼荼羅」を描いていた時にふと、こんな事を思いつきました。

「一度、書類上だけでも解消してみよう」

相手が嫌いになった訳でもなく、ただ「結婚」という制度が自分を縛り付けているようで息苦してく仕方なかったのです。

そして「結婚」という制度のせいで、自分が相手に依存しているんじゃないだろうか…と思いが強くなりました。

ちなみに、わたしなりにツカちゃんという人柄を説明すると…
相手を束縛することがなく
視野が広く、洞察力があり、
ありのままの相手を尊重することができる人です。

こんな人には今まで出会ったことがない!というのが素直な印象です。

だから出会った時からわたしは、ほぼツカちゃんを信頼していて
「この人の船に乗っていれば、大丈夫」と超安全チケットを手にしている感覚でした。

…もうね、これを書いてても笑いたくなるんですが(笑)
完全に精神的に依存しまくりですね!

ま、「光の曼陀羅」を描いてた当時は精神的依存とは気づかずに
このモヤモヤする感じは、きっと「結婚」という契約がわたしを縛っているんだ!と思い込んでいました。

そりゃ、自分自身を信頼せずに、誰かを信頼すること(頼ること)でゲットした超安全チケットが真の意味で安全な訳が無いんだから、モヤモヤするのは当然ですね…(笑)

それに気づいてないわたしは、その時の気持を正直にツカちゃんに打ち明けた訳です。

「ツカちゃんや家庭に問題がある訳じゃないんだけど、書類上「結婚」を解消してみない?」
「別々に暮らすとか、そういうのではなくて、生活は変わらずに「解消」だけしてみたい」

ツカちゃんは「子どもを裏切らないという約束なら、別にいいよ」という軽い返事でした。

それで、実際にシュミレーションしてみるとわたしの中にいろんな問題が出てきました。

両親には何て説明しようか…
書類上、面倒なことがたくさんありそうだ…
アレはどうなるんだろう…
コレはどうなるんだろう…

と、とにかく大変そうだな〜という感じでした(笑)

さらに様々な出来事があり、ツカちゃんからも
「やっぱり、書類上でも解消は嫌だ」とハッキリ伝えられ
わたしの「ちょっと書類上だけでも解消してみたい」熱は治まってゆきます。

今なら、よくわかるのですが
「わたしが、わたしを信じる」という事ができてないことに問題があったのに
「結婚という制度がわたしを縛っている」という、原因を外へ求めたことにズレがあったのです。

…もう、トンチンカンもいいところですね!

案の定、そんなズレた思考から始まった「書類上の解消」だったので
ツカちゃんにも不安要素が伝わったんでしょうね。

お陰で面倒なことにならずに済みましたとさ…(笑)

そこから、わたしの自分を信頼するワークが始まるのです。

続きはまた次回書きますね。

本当に、つらつらと長い文章にお付き合いくださりありがとうございます☆

結婚について(1)

1回目の結婚で、
わたしは「結婚」という制度を使っても
相手を縛り付けることができないということを知りました。

2回目の結婚で、
わたしは「結婚」という制度を使って
自分を縛り付ける必要はないということを知りました。

面白いですね、「結婚」の両面を体験できてる感じです。

1回目に体験した「結婚」は、まさに「相手を縛る」がテーマにありました。

それはお付き合いしている時から始まっていて
交際を初めて半年くらい経ったある日。
相手に、もうひとり交際をしている人がいることを知らされます。

あまりにも突然のできことに、わたしは何が起こったか理解できないまま
彼とは別れることになります。

彼は彼女を選んだのです。

別れを宣言されても納得がいかないわたし。

わたしと交際を始める1年前から彼はその彼女と交際を始めていて
そこへ突然わたしが登場したので当然、彼女も納得いかない訳です。
奪って、奪われての争奪戦開始〜!(笑)

今だから分かるのですが、わたしを一番怒りに奮い立たせたのは
彼女が既婚者だったことです。

当時は「悲しみ」と感じてそう表現していましたが、その根っこにあるのは
間違いなく「怒り」と同じエネルギーだったと思います。

そうそう、ここ大切なんですが自分が「◯◯をされた」と被害者意識がある場合
悲しんで涙を流す日々を過ごす人が多いと思いますが、根っこにあるのは「怒り」と同じエネルギーです。

それをストレートに殴りかかって「怒り」で表現するか
泣いて泣いて「悲しみ」で表現するかの違いだと感じています。

「家庭がある」という壁を乗り越えてでも、彼は彼女を選んだ。
この事実がわたしのプライドを傷つけました。

それを「怒り」という表現をしなかったわたしは
「悲しみ」バージョンで、彼を取り戻すのです。

相手は何故、離婚して彼と一緒にならないのか?
相手は「結婚」してるのだから彼を選ぶ権利はない。

心の底では、そのくらい「結婚」には権限があると信じていました。

それでもわたしの中には
「家庭がある」という壁を乗り越えてでも、彼は彼女を選ぼうとした
という事実が変わることがなく、いつも不安を抱いていました。

そしてその不安を解消するべく「結婚」という制度に依存します。
彼と結婚して安心を得ようとしたのです。
またまた「結婚」の登場ですね。

しかし結婚して1年が過ぎたころ、彼は同じ彼女と交際を再開したのです。
その事実を知ったわたしは、今度は悲しんでなんかいられずに怒りで満ち溢れます。

人生で最大の大噴火です(笑)

「怒り」バージョンで、彼を取り戻そうとしますが
どこかで冷静なわたしが自分にハッキリと言っていました。

あぁ、「結婚」でさえ彼をここに留めることはできないんだなぁ〜
書類で縛り付けたところで、彼の心は縛ることなんてできないんだなぁ〜

そんな風に真実をちゃんと理解しながらも
いかんせん「怒り」バージョンにスイッチが入ってしまったもんだから
その後は家庭裁判所まで行き、彼女も引っ張りだして、泣きながら彼女に謝罪文を書かせる…
という所まで「怒り」バージョンを表現させてもらいました☆

本当に貴重な体験だったなぁ…。

たくさんの気づきを体感として得られたのも、この出来事のお陰です。
そう思うと、この出来事に関わってくれた全ての存在に感謝ですね!

1回目の結婚がすべて終了すると、あきらかにステージが変わりました。

その頃に出会ったのが、今のパートナー・ツカちゃんです。

そうそう、わたしツカちゃんのことを「主人」とか「旦那さん」とか呼べないのです。
「相棒」とか「パートナー」とまわりには紹介しています。

1回目に結婚した相手を何て呼んでいたか、さっぱり思い出せもしないのですが(笑)
「相棒」や「パートナー」と呼んだ記憶がないことは覚えている…。
おそらく、そういう存在に感じていなかったのでしょうね。

ツカちゃんは「パートナー」としか呼びようがないというか、他に表現の仕様がありません。
もう、この時点で誓約なんて必要ない感じを受けて取れちゃいますね!

2回目の結婚は、さらにわたしを深い体験をたくさんさせてくれました。

続きは次回書きますね。

長文、読んで下さりありがとうございます☆

映画「スライヴ」を観てみた

昨夜、久しぶりにPC仕事をしていたら
何故か「スライヴ」という映画を観るながれになりました。

この映画を観て、自分の中でいろんなものを発見したので覚書。

自分のなかにある軸がハッキリした感じです。
今まで、ふわふわとしか感じていなかったものが
より輪郭をはっきりさせてわたしの中に存在しはじめました。

…と言っても、はじめから存在していて
その軸が強力になってきただけのお話です(笑)

捉え方は人の数だけあって、それぞれが真実です。


映画を観ることがめっきり少なくなってきて、久しぶりに観たお陰さま。

とてもニュートラルな感覚で観ることができました◎

今までのわたしとは、まったく違う感覚で観ることができて
わたしは自分の存在する位置のようなものを確認した気分です。

映画にもいろんなジャンルがあります。
SF、コメディ、ラブストーリー、アニメーション、ファンタジーなどなど…。
もっとたくさんあるのだろうけど、今わたしが思いついたジャンルは
「これは、映画。物語の世界だ」と割りきって観ることができます。

それでも、観てる間はストーリーに夢中になって、その境目は曖昧になりますが(笑)
逆に夢中になれなければ「映画」を十分に楽しめないですね!

だけど「ドキュメント系」の映画に関して、今までのわたしは
「映画」と「リアル」の境界線が、ほぼ無し!と言っても過言じゃない態度で観ていました。

同じ「映画」なのにね…面白い(笑)


ところが、今回は不思議な体感をしました。

まずわたしは『スライヴ』という映画を「これはドキュメント系ね!」とジャッジしました。
その態度で観るもんだから、多少の違和感があったとしても大まかな部分は「本当のこと(リアル)」として受け入れ始めます。

…そう、今までのわたしだったらね。

それがどうしたことか、今回は違和感ばかりが胸の当たりにモゾモゾと動き出すのです。
映画の内容に問題があるのではなく、「これはドキュメント系ね!」とジャッジしたわたし自身への違和感でした。

この映画はトーラスエネルギー体の話から始まって、フリーエネルギーに触れてゆきます。
タイトルの「スライヴ」は、「すべての人類が等しく繁栄する」という意味が含まれていて
その鍵となるのが、このフリーエネルギーとされています。

そしてフリーエネルギーはすでに可能な技術で、実際に存在しています。

前半はワクワクした訳です、わたし。

わぁ〜、すごい技術だな♡って超ワクワクして観てました。

でね、このフリーエネルギーという技術は今まで散々に抑圧されてきたそうです。

後半になり映画は、この抑圧する存在を暴き始めるのですが
この辺りから、わたしは変な感覚になり観るに耐えられなくなり途中退場…。

そしてハッキリと認識したのです。

「あっ、これ映画じゃ〜ん!」

後半のわたしが耐えられなかった部分は闇の存在を暴いてゆくのだけど
その描写が「恐怖」を全面にだしていて(効果音とか映像とか…)
やってることは暴いている闇の存在と変わらないな!と感じました。

自分たちの正しさを証明するために、恐怖(闇の存在)を作り上げて
あたかも自分たちは被害者や犠牲者のようなふりをする。

そこにイライラさえ感じ始めたわたし…。

この映画はいったい、何を伝えたいんだろう…とわたしには全くわからなくなり途中退場(笑)

本当にフリーエネルギーや宇宙の法則の素晴らしさを伝えたいのなら
そこに恐怖(闇の存在)は必要ないだろうに。

そんな思いがわたしの中に生まれてゆくにつれ
「あっ、これ映画じゃ〜ん!」というセリフがこだまする(笑)

この映画の展開にイライラさえ覚えたわたしは、完全に「ドキュメント」=「リアル」の方程式にハマっていました!

そうそう、映画なんです、映画。

起承転結があり、ハラハラドキドキがなければ楽しくない(笑)

最後まで観ていないけど、
前半はフリーエネルギーで明るい世界を表現し、
後半は闇の存在でハラハラドキドキして、
きっと最後はまたフリーエネルギーで明るい映像で終わるのでしょう。

闇の存在のお陰さまで、最後にはフリーエネルギーは更に希望の光を増したんじゃないかな♡

そう思うと、闇の存在ってある意味ありがたく感じるのはわたしだけ?

自分たちの正しさを表現するために、闇の存在を使ったっていいじゃないか!
だって、映画なんだもん☆

映像に作られた時点で、それはもうリアルじゃないんだ。
ドキュメント映画にリアルを勝手に求めていたのは、わたしだった。

そして今回わたしが「ここまで被害者ぶらなくてもいいじゃん!」とイライラしたのも
何より、わたしがまだ「被害者」という感覚や、何かに対立する(受け入れない)概念がある証拠ですね。

闇の存在にも、この映画にも同じエネルギーを感じます。

そういえば、いままでも似たような感覚があったなぁー。
こうやって繰り返し体感しながら、中心軸はさらに回転をしてゆくんだろうな。

興味がある方は、ぜひ映画をご覧下さいね。
内容よりも、自分が何を感じているかに焦点を合わせると面白いかも知れません☆

SAGITTARIUS 射手座

SAGITTARIUS

SAGITTARIUS

【画像の無断転用・使用禁止】

自由に飛べる翼があれば
きっと、あの子に会えるだろうに

狙った獲物を逃さない弓と矢があれば
きっと、あの子を捕らえるだろうに

僕には自由に飛べる翼も
強い弓矢も持っていない

自分の無力さに打ちひしがれていると
あの子が優しく、こう言った。

どんな翼を持っていようと
アナタはわたしに会えないわ。

どんな弓矢をもっても
アナタはわたしを捕らえることなんてできないわ。

だってわたしは
誰よりも自由で
何よりも強いの

そして
翼や弓矢を持っていなくても
アナタは十分に自由と強さを持っているわ。

翼なんかに頼らなくても
アナタはわたしに会いにゆけるし

弓矢なんか使わなくとも
アナタには強い意志がある

あの子の優しい声が、こう言った。

アナタは
誰よりも自由で
何よりも強いのよ

それは、まるで紙芝居のよう

昨日、とても不思議な体験をしました。

すぐに忘れちゃうので覚書き(笑)

いつも通る道を、いつもの場所へ向かって運転してる時。

混みあう交差点で突然、黒猫が対向車線に飛び出してきました。

1台の車にぶつかった黒猫は、出血はなかったものの
かなりショックを受けていて、道路の真ん中でもがき暴れ出したのです。

混みあう交差点は、黒猫を避けながら車が行き交い
わたしは心をかき乱されながら、停車することもできずにその道を進みました。

黒猫とわたしは完全に同調していて
その後も、わたしの動揺は落ち着くことがなく
次の交差点を曲がったところで引き返すことに。

数分後にその交差点に戻ってみると
まるで、なにも起こっていなかったように
淡々と車が走っていて、黒猫が衝突した場所にも何ひとつ跡形もなく
もちろん黒猫の姿は何処にもありませんでした。

引き返す道中、動揺を隠せずにいたわたしは、すっかり拍子抜け。

あれは、夢だったのかなぁ〜と疑うほどに
その空気のなかにさえ、黒猫のことを匂わすものは塵ひとつない。

再び目的地へ向かうべく、道を戻って行ったのだけど
明らかに何かが変わってしまったのを感じました。

瞬間ごとが、まるで紙芝居の1枚絵のようにパラパラと感じ始めたのです。
物語は続いているように思えるけれど
紙芝居の1枚ごとの絵は前の絵とは無関係で、それだけで完璧な1枚の絵なのです。

そしてわたしたちは、その絵の展開を1枚づつ瞬時に選択しています。
たくさんある絵の中から、自分で絵を選んでその展開を楽しんでいる。

そのことを目撃したような気分でした。

そのぐらい、黒猫は突然現れて車に衝突し
数分後に戻ってみると、跡形もなく消えている…。
本当に、スッパーン!!とシーンが変わったのを感じました。

今までのわたしなら、そこに物語の繋がりを求めて
黒猫の姿をチラリと見つけるとか、道路に跡が残っているとか
そういう場面を選ぶのだろうけど
いかんせん、探そうにも何処にもなく(笑)
空気の中にさえ見つけることができなかったのです。

そして、まるで紙芝居のように展開している「いま」という1枚づつの絵を目撃して
あぁ、本当に世界は自分で選択して創っているんだな…と感じました。

黒猫が目の前で車と衝突する。

その絵の後に続く展開を、わたしはいかようにも選べる。

時間の流れが止まってしまったような状態で
わたしの目の前に、たくさんの絵が並びました。

そして誰かが「さ、次はどうする?選んで!」と言っているのです。

きっと、なにか悪いことが起こるんじゃないだろうか…
親しい知人の中の誰かに、何かあったんじゃないだろうか…
これは吉兆のサインだ…

などなど。

とにかく無限にも次の1枚が存在することを知ったのです。

そうのうちに、最近ある人が教えてくれた魔法の言葉を使っている自分がいました。
(そのブログはコチラ→『神になったサラリーマン』

「わたしは わたしを 愛している」

何度も腑に落ちるまでその言葉を繰り返しているうちに

「わたしは わたしを 信じている」

という言葉に変わってゆきました。

わたしは、どの1枚を選びたいかをちゃんと知っている。
わたしは、どの1枚を選べば良いかをちゃんと知っている。
わたしは、どんな展開になろうとも、その1枚を自分で選んだことを知っている。

「わたしは わたしを 信じている」

そしたら、怖いものなんて何もなくなってしまい
一番愛している自分が選んだものを信じることができて
問題がなくなってしまいました(笑)

もう、そこに深刻になることができなくなったわたし。

そんなことが起こった
昨日の午前10時03分。