お金について(1)

台風の影響で空もお祭りのように、晴れたり曇ったり降ったり大忙しですね!

さて、今回は「お金について」です。
実はこのテーマ。随分前からわたしが取り組んでいるもので
文章にするには体感も乏しいので、まだ早いような気もするのですが
今現在のわたしの「お金」に対する感覚を記してみよう〜と思います。

ところで、お金の話をするのは好きですか?

あまり考えたことのないですよね(笑)

わたしは罪悪感というか、そういう話題は避けていることが多いです。
お金の管理や、計画をすることを「苦手だから・・・」と無関心を装って避けています。
もう、自分でもちゃんとそれに気づいているので、確信犯ですね(笑)
実際に数字にめっぽう弱いので、お金の計算や計画は得意ではありません。
でも、これって実は思い込みなんですね。
というか、お金に関して言えば「すり替えている」んです。

「お金」について話すことに、罪悪感を抱いているくせに「数字に弱くて〜」と言って
その罪悪感さえ見ないように蓋をしている状態です。
本当はお金の事が大好きなのに、興味が無い振りをしてるんですね(あまのじゃく〜!!)

このことに気づけたのは最近なんですが、やっとそんなズルい(笑)自分を受け入れて
本気で「お金って、一体何だろう〜?」という興味が湧いてきました。
と言うか、本気で「お金」のことを知りたいと思うようになったから、受け入れられたのかも知れません。

とても大切なことなんですが、お金について学ぶ機会って子供の頃にありましたか?
わたしの記憶では、ちゃんと学ぶ機会はありませんでした。

親が持っている「お金に対する価値観」が、そのままわたしのお金に対する価値観になっていました。
わたしの場合は特に母からの影響がとても大きかったです。

保険会社の営業マンをやっていた父は、とても堅実な人で家族がお金に困ったことは一度もありませんでした。
母は専業主婦で、外で働かなくとも暮らしは豊かでした。
家族旅行もよく行ったし、欲しいものはだいたい買ってもらえる家庭でした。

母は質素な生き方を好む人で、
「お金は無駄遣いしてはいけない。」
「ちゃんと貯金をすること。」
「お父さんが一生懸命働いたお金だから大切にしなければいけない。」
という言葉はよく耳にしていました。

それで、わたしは小学生の頃から郵便通帳を作ってお小遣いやお年玉を貯金していました。
貯金すること自体はそんなに悪いことでは無いんですね。
小学生で何万円も使う機会なんて無いので、貯金しておくのは決して悪いことでは無いのです。
ただわたしの場合、貯金することは学んでも「お金の使い方」という学びや体験がなかったのです。
むしろ「貯金することは良いこと」と思っていたわたしには「お金を使うこと」は悪いことのように感じていました。
だから「お金を使う」という発想自体が生まれにくい子供でした。
そうなると、どうなるか・・・。

無意識ながらに「お金」には興味関心がある訳ですから、より「貯金すること」に楽しみや喜びを求めるんですね。
それに加えて、貯金をして堅実なわたしの姿を見て母が喜んでいるのが分かるんです。
(子供はほとんどの場合、親の期待通りに在ろうとしますからね・・・)

お金を持っていても、欲しいものが買えなくなり、必要なものでさえ、買えないのです。

買い物の仕方が変わらないのではなく、お金を使うことに極度な抵抗があるのです。

これは随分と大人になるまで続きました。
高校生くらいまでは、その罪悪感は常にあったと思います。

お金を得たり、貯めることはできても、使い方を知らない。
もちろん、お金は使っていますよ(笑)
何かを買ったり、生活したり・・・基本的なことはちゃんとしています。

ただ、生活というのは食べて、寝て、着るものがあれば十分・・・それだけでは無いですよね。

本当の「お金」の活かし方を知らないのです。
何がきっかけかは忘れてしまいましたが、去年ぐらいから「お金」って何だろう?という興味が生まれました。

わたしが学ぶ機会がなかっただけで、本当の姿があるんじゃないだろうか?そんな気がしたのです。
お金の使い方、活かし方を知りたい!体験したい!と思ったのです。
「月給が◯◯円だから、この仕事をしよう」とか、そういう意味での「お金」には興味が無くなったんですね。

親の価値観が大きな影響を与える、と始めの方で書きましたが
これはあくまでも受け取る側の子供サイドの選択でもあります。

だから、親がこういうお金の価値観を持っているから、子供はこうなる・・・とか、
わたしのお金の価値観を植えつけたのは母のせいだ!とか言ってる訳ではありません(笑)

実際に、わたしは三姉妹ですがそれぞれにお金に対する価値観や使い方は違います。

わたしは、使うことへの抵抗を抱くことで「お金」というものを通して様々な体験をし、
それを楽しみ尽くして次なる「お金って本当は何者なんだろう?」という好奇心が生まれたのです。
「お金」を通して抱く価値観は、実のところ根っこにある自分自身の価値観です。
「お金」がそういう存在なのではなく、あくまでも「自分自身の価値観」です。

例えば、使うことに抵抗があるというのは、その根っこには何があると思いますか?
「自分には使う価値がない」
「欲しい物を得ることは悪いこと」
「周りに嫉妬されないだろうか」

自己評価があまりにも低かったり、
自己否定が強かったり、
恐怖や心配だったり。

多くは、そういう「否定」する思い込みがお金を否定していうと感じます。
「お金」って凄いですね!

愛されることも、嫌われることも、すべて受け入れてくれています☆
「悪役」にもなれるなんて・・・相当の愛がなければできませんね!

少しづつ、わたしが感じたり体験したことを通して「お金」について書いてゆこうと思います。

長文、お付き合いありがとうございます。

車社会について

思考が生き生きしているうちに書き留めようと思います◎

引き続き『美しき緑の星』を観て感じたことなのですが
わたしがこの映画で気になったキーワードのひとつに「車社会」があります。
おそらく制作側もかなり意識しているんじゃないだろうか・・・と感じました。

まず、驚いたのが車が悪い存在とされていたことです。
空気汚染はわたしも想像できましたが、それ以外の理由として
「車の存在によって、交通事故で人や生き物の命を奪う」
「車の存在によって、人が歩かなくなり健康被害を与える」
というのがあり、これにはちょっと驚きました。

原発、戦争、添加物などと同等に「悪いもの」として裁判にかけられる存在なのです。

へぇ〜!そういう見方もあるんだ!と驚きました。

そこで今現在のわたしの生活にとって「車」ってどんな存在だろう・・・?と考えてみました。
もともと車には興味のないわたしだったので、免許がとれる年齢になっても取ろうとは思わなかったし
子供が生まれてちょっと田舎暮らしを始めよう・・・となってやっと教習所へ行きました。

実際に運転をするようになり今ではもう、なければ困るなぁ〜という程に欠かせない存在です。
ライフスタイルにもよるのだろうけど、わたしにとって車は「便利」という言葉が最初に浮かびます。

運転している時間を楽しんでいることもあるし、行動範囲も広がります。
わたしの生活にはプラスになることの方が多いです。

それは、今までに大きな事故やトラブルがなかったから、そう感じるのかもしれませんが
「交通事故で人の命を奪う可能性があるから」とか「空気を汚染するから」という理由で
車を手放そうとは思いもつきません(笑)

車を手放すことで、わたしのワクワクが減ることの方がはるかに大きいのです。
これが、何か他のことに楽しみを感じて、その結果、車を手放しているなら話は別です。

ちょうど1年前から、我が家は初めて車を2台使う様になりました。
それまでは、パートナーと予定を確認しあったり、送ってもらったり送ったりして
お互いに気を使い合いながら車を使っていたんですね。

それが2台になったことで、自由に動ける心地よさを体験しました。

お互いに助けあったり、気を配ることは悪いことでは無いんですよ。
でもそれは、車でなくとも他のことで十分出来るわけです。

何をどう考えても、車はわたしにとって「便利」で有り難い存在です。
乗ることも苦ではないですしね。

ただ、きっと未来は違う形になっているだろうなぁ・・・と最近思います。

車だけでなく、いま主流となっている移動手段は将来違うものに変わっているだろうな・・・と感じます。
というのも、7歳と4歳の娘&息子が車や飛行機に乗っている時間が嫌いなのです。

旅行に行くのはとても大好きなんですよ。
息子なんて、飛行機や車や電車を見るのは大好きなんです。
でも実際に乗って移動するのは苦痛を感じて、すぐに「もう降りたい・・・」と言い出します(笑)

東京へ帰省する際も「わーい、ばぁばたちに会える〜!」と大喜びしますが、どの交通手段も「嫌だなぁー!」と言います。
と言っても、どうにか飛行機や車で東京へ向かいますが(笑)

個人差はあるとは思いますが、わたしが子供の頃は交通手段にさほど苦痛は感じませんでした。
今でもそんなに苦痛はなく、車は車で楽しいし、飛行機もそんなに嫌ではないです。
あっ、でもそう言えば新幹線はちょっと苦手になりました(笑)

「スピードの中に居る!」というのを体がとても感じるので落ち着かなかったです。
そうすると、自然に新幹線は手放せるんですね。選択肢から消えてゆきます。

そんな感じで、きっと子どもたちは「苦痛」という理由から今ある交通手段ではないものを選択してゆくと思います。

「快適」や「楽しさ」を求めて新しい文化が生まれます。
だってそれが「興味」の元であり、「創造」のきっかけだからです。

わたしは今の交通手段に不便や苦痛を感じていないので、新しい創造を考えようとも思いません(笑)

どこでもドアがポケットから出てきたら便利だろうな〜と思いつつも
目的地までの道中も楽しみたいわたしには、どこでもドアは必要ないんです。
むしろ、ドアを開けたら目的地っていうのは、味気ない〜!と感じてしまいます。

確実に次の世代は違う意識をもって、ここ地球に来ています。
新しい世界を創造するのを目的にやってきてるんだな・・・と感じることが多々あります。

だからわたしとしては、今心地良いと感じていたり、便利で有り難いなぁ〜と感じてるものを無理に何か理由をつけて手放す必要はないと思います。

各個人が「必要ないなぁ〜」「苦痛だな〜」と感じた時に、感じたものを手放せば良いだけです。
手放して、また手にしたってオッケーです。

頑張ったり、無理をしたり、我慢をしたりしなくとも、意識や興味をもった存在が新しいものを創造します。

「◯◯してはいけません!」と禁じたところで、意識や感情が伴っていなければ意味がないとの同じで
意識の変化があって、初めて意味のある行動や創造が生まれると思います。
わたしはそう有りたいなぁ〜と思っています◎

一見、他力本願のように映るけれど、子どもたちを見ていると
「君たちが創造してゆく未来、楽しみにしてるよ〜!」とワクワクします。
だってね、意識が全く違う存在なんす。
わたしの想像をはるかに超える世界を創るだろうなぁー!という確信があるのです。

こっちの方が、カッコいいよ!
こっちの方が、楽しいよ!

そんな感覚で、どんどん未来を想像してゆくと思います。

映画で「車は悪いもの」と表現されてるのを観て
良し悪しの判断じゃなくて、きっと未来は「こっちの方がオシャレだよ!」って感じで
車は手放されてゆくだろうな・・・と感じました。

・・・まぁ、さほど車に苦痛を感じていないわたしには、車あっても良いのだけどね(笑)
そろそろ他のモノが誕生しても面白いですね!

その時には素直に「わ~!使ってみよう〜」と楽しめるフットワークの軽さを身につけていたいです。

インターネットなんて、そうですもんね。
わたしの親の世代では考えられなかったアイテムも、受け入れる柔軟さがあれば世代なんて関係ないですね。
受け入れるがどうかで、体験する世界は変わって行きます。

わたしは、いついつまでも柔軟に世界を楽しんでゆきたいなぁ・・・。

車社会から話が脱線した感じもしますが、みなさんは車をどんな風に感じていますか?

罪悪感を抱きながら乗っていますか?
無ければいいな〜と感じますか?
言われている様々な問題は「車」の存在のせいだと思いますか?

時間があれば、これらの質問に耳を傾けて観てください☆
いろんな発見があって面白いですよ〜

長文読んでくださりありがとうございます。

『美しき緑の星』感想(後半)

さて、映画『美しき緑の星』の感想の後半です。

全部を観終わったわたしの感想は
「やっぱり、地球って素晴らしい〜!!」だったのですが
あの映画を観て似たような感想を持った方はどのくらいいるでしょうか?

わたしは予備知識とか、他の人の感想とか、いろいろな情報を出来る限りカットして
ニュートラルな状態で映画を観よう・・・と心がけました。
そして、わたしが感じることを素直に感じよう。
そうやって1時間半、ストーリーを感じていました。

途中もそうだったけれど、観終わった時は
「地球って素晴らしいなぁ〜!」という気持ちが溢れていました☆

物語の設定は「地球は野蛮な星」とされていて
これは捉え方なんだろうけれど、きっと本当に地球って宇宙視点で見たら野蛮なのかもしれません。
「野蛮」という表現が正しいかは分からないけれど、かなり波動を下げた星ではあると思っています。

だって、まだ移動は車や飛行機を使っているし、エネルギーも食べ物からそのほどんどを得ているし。
きっとコミュニケーションも移動も瞬時に出来て、エネルギーも他から取る必要がない文明もあると思います。

で、最初のシーンの話に戻りますが、美しき緑の星の暮らしを見てわたしは感動はしなかったんです。
素敵だな〜とは感じたけれど、憧れや感動はほぼ皆無だった訳です。
その、実にフラットな感情にわたしは驚きもせずにいたのは、それが何故かを分かっていたからです。

ちょっと、話が逸れますが・・・。

わたしは自分がクリスタルのような存在になりたくて仕方がない時がありました。
ちょうど1年前くらいかな?
まだ知らない自分の能力(例えば、テレパシーとか瞬間移動とか見えない存在とのコミュニケーションとか)に憧れを抱いていました。

未知なる世界へ興味を抱くこと。
未知なる能力を伸ばそうとすること。

それ自体には何ら問題はないんですね。
ただ「強い憧れを抱く」とまでゆくと、今の状態に不満がある現れなんです。
わたしの場合は、現状を否定する思いがって憧れが生まれていました。

「クリスタルになりたい!」と本気で思っていたわたしは、ある時ふと気づくのです。

わたしの宇宙論では(あくまでもメル論ですよ〜)、わたしたちは元は光の存在です。
その光の場所は、全てが存在していて、不可能とか可能とかそういう概念もありません。
言葉に表現するのは難しいですが、全てを含んだ「無」です。
感情も摩擦も何も無いので、ただ平安や至福が広がっている世界です。
だから、その頃わたしが憧れていた能力も当然のように存在していた訳です。

簡単に言うと、もう既にそういうことは光の世界でやっていたんです・・・わたし。
で、この地球を離れる時もやっぱり光の世界へ戻るので、その時たっぷり出来るわけです。
それに気づいたわたしは、あっさりと憧れを手放しました(笑)

そうそう。

公園でピクニックをしてたら急に映画が観たくなって映画館に入り
たまたま、その物語で主人公が公園でピクニックしているのを観て
「わたしもピクニックしたい!いま、ここでピクニック〜!!」と無理難題を言ってる感じ(笑)
・・・ピクニックって言ったって、ここ映画館だし。
映画が終わってから、映画館を出て公園でピクニックすればいいじゃん。
・・・というか、忘れてるみたいだけど、さっきまで自分もピクニックしてたよね〜?

こんな感じです。

そんな風にわたしの意識がちょっと変わってみると
急に地球という世界が素晴らしく感動するようになりました。
自分に欠けているものがあると感じている時にはなかった感動です。

自分がクリスタル(光の存在)では無いと感じていたあの頃とは違って
わたしは既にクリスタルだったんだ・・・と思い出すと、安心して今を遊ぶことができるのです。

さて、話を映画の感想に戻します。

既にここ、地球の素晴らしさを知ってしまったわたしが『美しき緑の星』を観ると
ミラたちの星は「懐かしい」かつて自分が居た場所のように感じました。
そして今、地球という星のアトラクションを楽しみ始めたわたしにとっては
「ちょっと、退屈だな〜」という物足りなさまで感じてしまうんですね。
満たされ過ぎて、完璧すぎてつまらない・・・そんな印象さえ抱きました。

一番わたしの興味を惹いたのは、ミラが地球のあらゆることに驚き感動するシーンです。
お風呂のバスタブに水を溜めるという些細なことにさえミラは驚くのです。
後から地球へやってきた息子たちも、初めて見る車に興味津々でドキドキしながら運転します。
目に映るもの、全てが新鮮で感動や驚きがある・・・。
これって素晴らしいことだなぁ〜!と心から思います。

映画はいろんな楽しみ方があります。
(映画だけではなく、目の前のこと全てにおいて同じですが・・・)
問題提起をしてディスカッションしたり、現代社会への警鐘として受け止めたり。
大笑いして気分転換したり、スッキリするまで泣いてみたり。

楽しみ方は、ひとつじゃないですね☆

最近のわたしは「自分が何を感じるかを体感する」という楽しみ方を大切にしています。
・・・というか、今はそういう楽しみ方しか出来ない状態です(笑)

この映画を観て、わたしはとてもフラットな感覚でいたのは大きな発見でした。
「地球って素晴らしい〜!」と心から感じたわたしは、その地球を「野蛮」と描かれていることにさえ
何も違和感や不快感を抱かなかったんです。
むしろ「面白い設定〜!」と感じて面白かったです。
かといって、ミラの星に嫉妬や否定的な感情も生まれませんでした。
ただ、素直に「素敵だけど、すぐに退屈になっちゃいそうだなぁ〜」くらいです。

何が良くて、何が悪い・・・そういう判断が生まれなかったのです。

地球でミラと接触した人や、切断プログラムをされた人が「幸せ」とも感じなかったし
100%地球人をやっている人が「可哀想」とも感じませんでした。

物語の中で、ミラがオーケストラの数名に切断プログラムをしてしまうシーンがあります。
オペラ座で公演があり、ミラもその会場へ向かいます。

始めは厳格に演奏をしているのですが、切断プログラムをされた数名が突然立ち上がり
演奏をめちゃめちゃにしてしまいます。
自由勝手に演奏を始めるんですね。

「音楽にはルールなんてな~い!」と全身を使って踊り歌い演奏を始めます。
それはやがて楽団全員に広がり、観客も巻き込んで大盛り上がりになる訳です。
演奏はめちゃめちゃではなく、大成功になったのです。

その演技というか演奏は本当に凄くて、実際に観たら感動しちゃうだろうな!と感じました。
バイオリンやチェロなどの弦楽器のイメージや、オーケストラの厳格さという固定概念があり
わたしには想像できなかった演奏だったんですね、きっと。
素直にその演奏は楽しかったです。

で、ここで大切なのが、だからといって「オーケストラは音楽じゃない」では無いということです。
音楽には厳格さは全く必要ないと言っている訳じゃないんです。

だって、すべての音楽が型から外れたのもだけになったら、それはそれでつまらないと感じるからです。
厳格な型が存在するからこそ、それをぶち破った時の開放感や新鮮さが生まれるからです。
「型にはまらない」という「型」を創ることにもなりますね。
どちらも楽しめる柔軟さ。どちらも同等に存在する世界。
これが、この地球の素晴らしさというか楽しさなんだと感じます。

あと、わたしがこの映画でとても気になったキーワードは「車社会」と「貨幣社会」です。
これは映画を創る側がメッセージを強く表現しているように感じました。

これに関してはまた別で、詳しく書いてみたいと思います。
ちょっとみなさんも、このキーワードについて自分が何を感じるかを体感してみてください☆

この映画を観て、ミラの星に憧れを抱いた方も沢山いると思います◎
こんな世界が実現したらいいなぁ〜と、素直に正直に感じた方もいるはずです。

でも、よくよく考えてみてください。

この映画を制作したのも制作した場所も、ここ地球に住む人間で舞台も地球です。
ミラの星「美しき緑の星」は、ここ地球にすでに存在しています。
だって、本当に宇宙船に乗って他の星へ行って撮影した訳でもなく
異星人がシナリオを書いて演じた訳でもなく
ここ、地球なんです。

ミラの星「美しき緑の星」の始まりのシーンを観て「綺麗だなぁ〜」と思ったわたしは
同時に「地球って美しいなぁ〜」と確かに感じていました。
最後のシーンでは、ミラの星の人たちがまるでサーカス団のようにクルクルと回りながら運動をするんですが
それを観ても「人間って凄いなぁ〜」と感動しました。
こんなことも出来ちゃう人間って素晴らしいな・・・と。

この映画を創ることができた人間の創造力の素晴らしさにも感動しました。

かと言って、クルクルと宙返りができる人に憧れたり、ミラの星の人たちの能力に憧れたりする感情は生まれませんでした。

「わたしも、そうなりたい〜!」という気持ちが生まれなかったんですね。

それはきっと、わたしは今の自分という存在に満足していて
泣いたり笑ったり、上手くいかない事がたくさんあって落ち込んだりもするけれど
それを改めようとか思わずに、ありのままを受け入れる覚悟ができたからかもしれません。

本当〜!1年前のわたしと大違いで笑ちゃう(笑)

そういう意味で、わたしの今のポジションというか価値観を体感することができた訳です。
映画は観るタイミングで感じ方が違いますね。

またいつか、違うタイミングでこの映画を観てみようと思います。
その時にわたしは何を感じるのか・・・ワクワクしますね☆

タイミングの合う方、ぜひ映画も観てみてくださいね!

長文、お付き合いどうもありがとうございます。

プリマドンナ

プリマドンナ

【画像の無断転用・使用禁止】

可愛い小さなプリマドンナ。
わたしの大好きなプリマドンナ。

そのステップは時に不安そうで
わたしは両手を握ってしまうのだけど
そんなことお構いなしにプリマドンナは
堂々と宙を舞うのです。

可愛い小さなプリマドンナ。
わたしの大好きなプリマドンナ。

いつの日かわたしを追い越してしまう
その小さな体には
大きな可能性が秘めいていて

わたしは嫉妬を通り越して
懐かしいような気持ちになって見とれるのです。

そう、それはまるで
特等席で映画を観るような
そんな気分なのです。

可愛い小さなプリマドンナ。
わたしの大好きなプリマドンナ。

いつ、いつまでも
大好きなプリマドンナ。

『美しき緑の星』を観たてみた

久しぶりに映画を観ました。
今、話題(?)の『美しき緑の星』です。

この映画、1995年に制作されたフランス映画ですが
事実上発禁となり、ネットでアップしてもすぐに削除されてしまう・・・
そんな前書きと共に、つい最近知った映画です。

SNSで沢山の人が話題にしていたのを、わたしはずっとスルーしていたのですが
とあることがきっかけで「観てみよう!」と思った訳です。

先入観無しで、ニュートラルな状態で観よう・・・
これだけを意識していざ、映画を。

なかなか観るのが難しいと囁かれたにも関わらず、案外簡単に観ることができました☆

さて、ここから先はわたしの感想なので
ネタバレ御免の方は、どうぞスルーしてくださいね!

**********************

まず、だいたいのあらすじを書きますが
物語は自然豊かな星から始まります。
そこには人間とほぼ同じ姿の生命体が暮らしていて
彼らは衣食住全てを共同体で助けあって生きています。
人工物は無く、自然と共存している世界です。
テレパシーでコミュニケーションをとることもできます。

もちろん、貨幣制度はなく、政治もみんなで行うのです。
月に一度、山の頂上に全員が集まる総会で全てのことをみんなで話し合って決めるのです。
一応、家族という単位はあるものの、星の住民は大きなひとつの家族のような感じがしました。

そして、ストーリーの中で面白いのが
定期的にこの星から、他の星へ誰かを派遣させるというのがあるんです。
総会で、どの星に誰を派遣さけるかを決めるのですが
「地球へ行きたい人は?」と尋ねると、みんなうつむいて黙ってしまうんですね(笑)

そう、この物語では「地球=野蛮な星」となっていて
誰も行きたがらないのです。

「地球のことは放おっておきましょうよ」という声もある中
「いや、何かして助けてあげなければ」と議論がまとまらないでいると
ある女性が名乗りを上げます。

ミラというその女性は「切断プログラム」を授かり地球へと向います。
この「切断プログラム」というのがキーポイントになっていて
ミラに「切断プログラム」をかけられた地球人は、ありのままの自分を思い出すのです。
地球限定のルールに縛られないようになるんですね。

ミラが地球へ行って、いろんなことが起こるのですが
それをコミカルに描いている映画・・・そんな印象を持ちました。

さぁ!ニュートラルな状態でこの映画を観ようと心がけたわたし。
感じたままに、正直に言葉にしてみようと思います☆

違和感を抱く方もいるかもしれないけれど、あくまでもわたしの感想なので悪しからず。

始めのシーン。
美しき緑の星で、人々が互いに助け合いながら協調して暮らしている場面を観て
「きっと以前のわたしだったら、憧れや心地よさをダイレクトに感じていただろうな・・・」
と、まぁ〜何とも客観的に感じました(笑)

以前のわたしだけでなく、この映画をオススメする人の多くは
この美しき星を、疑うことなく「美しき星」「素晴らしき星」と感じるのだろうな〜と。

確かに、とても美しく描かれています。
緑は何処までも深く、壮大で、大人も子供も全てに満たされていて
「楽園」と言って良いほどに、素晴らしい世界でした。

そして、「地球は野蛮な星」という設定を観て「あははは〜!」と笑っちゃいそうになりました。
素直に「この映画、面白いな・・・!」と感じたのです。

「今だに貨幣制度らしい」
「車に乗っているらしい」
「えっ?車って、あの大昔の乗り物の事?!」

そんな会話が飛び交うのです。

そして地球へ派遣されたミラも、パリでいろんな事に驚く訳です。

土が何処にもない。
飲める水がない。
空気が悪い。
食べられるものがない。
地球人の顔色がみんな悪い。

いろんな人に訪ね歩くミラですが
不思議なことにミラと接触した人には
必ず小さな変化が訪れるのです。

突然、自然の美しさに気づいたり、肉食への嫌悪感を抱いたり。
そうして小さな変化を人々に与えながら
ミラは何人かに「切断プログラム」をします。
切断プログラムをされた人は、自分を装うことをやめて
ありのままの自分に戻ります。

心をオープンにして異星人のミラともコミュニケーションが取れるのです。
余計な固定概念が無くなるので、あらゆることを受け入れることが出来るようですね。

そうそう、「切断」という言葉は「固定概念を手放す」がわたしにはしっくり来ました◎

時々、ミラは家族とテレパシーでコミュニケーションを取りながら物語が進むのですが
地球の女性をテレパシーで観た息子2人が、その女性に会うために地球へ向かいます。

ところが彼らが到着した場所は、ミラの居るパリではなく原住民の暮らす土地でした。

原住民の人たちは、自然と調和した暮らしをしていて、彼らを快く迎え入れます。
「地球人は野蛮だ」と思い込んでいた息子たちは、自分たちと近い暮らしをしている原住民に好意を抱き
「地球人はとても親切だし、素晴らしい星だね!」と感動します。
そして、原住民の彼らと別れてミラの居るパリへと向います。

珍道中を経て、無事にパリに着いた息子たちはミラや理想の女性に出会います。
そして彼女たちに、自分たちの星での暮らしを話して聞かせるのです。

湖の近くに住んでいて、夜はみんなで草むらに眠ること。
起きたらすぐに、湖で水浴びをして午前中は運動をすること。
音楽というものは無くて、みな静寂を好むこと。
午後は勉強をする。政治はみんなでやるし、貨幣制度もない。
300歳近くは生きること。

そんな、地球とはまるで違う文化を話します。

この星の暮らしを聞いて、わたしは1年前に読んだ「アナスタシア」という本を思い出しました。

シベリアで家も何も所有せずに暮らしている女性の話です。
この本は実話で、アナスタシアという女性も実在するそうです。
そのアナスタシアは、ほぼ「美しき緑の星」と同じ暮らしを地球でしているのです。

その本を読んでいた頃(1年前くらい)は、アナスタシアに憧れを抱きました。
テレパシー能力を持っていて、地球のことをとても愛していて、所有という概念がないアナスタシア。
宇宙との繋がりをしっかりと持っていて、智慧を全て持っている女性。

彼女もやはり、自然と共存していて、自分の能力を使って地球の人たちに癒やしや助けを与えてるのです。
アナスタシアも自分の持つ能力を「誰もが元々、持っている」と言っています。
ただ、忘れてしまっているだけなんですね。

アナスタシアの考え方や生き方に、憧れさえ抱いてしまったわたしは
「誰もが持っている能力」という言葉に希望を感じました。
わたしにも出来るんだ!
わたしもアナスタシアのように生きることが出来るんだ!

そして、宇宙との繋がりを心から望んだり、自分を知りたいと思ったのです。

そうそう、この感想の始めでも触れたように
「以前のわたしだったら、この星に憧れを抱いただろうな・・・」という
「以前のわたし」というのが、ちょうど1年前くらいだったという訳です。

ちょっと、映画から外れてしまったので一度話を戻しますね。

お互いに恋に落ちた息子たちは、それぞれの彼女を連れて自分たちの星へ帰ります。
そして「美しき緑の星」で、彼らは今まで通りの暮らしをするのですが
エンディングで面白いな〜と感じたシーンがあります。

息子たちがお土産に持って帰ったロックのCD。
それをガンガンに掛けて、子どもたちが全身で踊って遊ぶシーン。
それを見たミラも思わず体が踊り出すんです(笑)

この星では「音楽」は古い文化となっていました。
彼らの世界では、自然の音が全て「音楽」なのです。
だから、あえて自分たちで楽器を使って音を奏でる必要が無いんですね。
それは古い文化なのです。

その古い文化を、今の子どもたちが面白がって楽しんでいる姿。
そのシーンにわたしは、ちょっとホッとしました。
どこまでも柔軟に素直に描かれた子供の姿に、ホッとしたんですね。

さて、全てを観終わっての、素直な感想は・・・。

「地球って素晴らしいなぁ〜!」でした☆
↑意外でしたか(笑?)

そして、この映画がどうして発禁なのかは、さっぱり分かりませんでした。
まぁ、いろいろと調べれば分かるのでしょうが、あまり興味がないのでどうでも良いです。
映画が全部観れて、めでたし。めでたし。

そうなんです。
始めの美しき緑の星に、素晴らしさを感じたけれども感動までには至らなかったわたしは
やはり「地球」に感動したんですね。

それは、どういうことか・・・。

話すと長くなるので、次回に書きますね。

長文、読んで下さりありがとうございます☆